昭和四十七年十月八日 朝の御理解
X御理解第七節 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終りもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
天地の徳を受ける。いわゆる神様の御信用を受ける、という事の為には、天地日月の心になる事が肝要だと。今日はそういう意味でなくてですね。いわゆる天地金乃神様という方がです。いわゆる天地日月の心、そのものをお持ちになっておられるんだという事です。天地金乃神様という方は、天地日月の心そのものを持っておられる。ここに天地は流行る事なしとか、流行る事なければ終りもない、とか言ったようなのは、昨日の朝の御理解から言うと、一喜一憂がないという事です。天地金乃神様という方はね、いわゆる照ったり曇ったりがないという事、心の中に、ヒステリーを起しなさらんというのである。
昨日私の例をもって聞いて頂きましたですね。段々、おかげを頂いて、例えば生とか死と、いうような人間の重大事に直面した時です。生まれたから特別に嬉しいという事でもなからなければ、死んだからと言うて、特別に悲しい事はない。いつも平生でおれれる。それはいわゆる天地日月の心になる事という事に、一生懸命修行させて頂き、その事に焦点を置かせて頂いて、おるおかげで、段々そういうおかげが頂けて来たという事。
おかげを頂いたからと言うて、調子に乗り過ぎる事もなからなければ、それこそ信心しても、拝んでも参っても、おかげらしいものがなくても、やはりそれで憂うつになったり、それで信心を止めたりするという事はなかったという事です。それが結局、完璧という事はありませんけれどもです。まあ昨日、言うなら私の初孫が出来たと、いう事に当ってです。本当言うならば、大変嬉しい事でしょうけれども。嬉しくないという事ではないけれども。それからと言うて特別に嬉しい事もない。只あるならば有難いというだけだ。そんならそれが難儀の場合であってもそう、それは普通で言うならば、本当に悲しい事であっても悲しまんですむおかげ、悔やまんですむおかげ、だけではない。
その事に有難いという心が出来てきたという事は、信心の稽古ちゃ大変な事だなと、自分自身がよい意味に於て、変わり果てていっておる自分を見て、信心ちゃ有難い事だなあ、尊い事だなあという事になる。私が今いつも思うておる事、念じておる事。まあ言うなら、私の生活意識とでも申しましょうか。そういうようなものを、例えば言葉で表現するならです。言うならば「信心を楽しんでおる」と言うたが一番適当だと思うです。信心を楽しんでおるという事なんです。教祖様の言わば、生きられ方。
それを日々このようにして、お言葉の中から、何回頂いても頂いても、新たな教祖の御信心の御内容というものに触れさせて頂く。その楽しみというものは、また格別なんです。いわゆる教祖の生きられ方というものをいよいよ追求しながらです。私がこの世に生を受けた、その意義というものがです。ハッキリしてきた。同時にそこにです、私の生き甲斐がある。それを私の只ひとつの生き甲斐なのである。信心を楽しむ、教祖の信心のあられ方というものを、追求してゆく事は私の生き甲斐である、というところ迄これは、言わば高められてきておる訳であります。儲け出す事が生き甲斐でもなからなければ、立派な普請を沢山するという事がです。この世に生まれてきた意義だとは思っていない。
唯々今月の御理解から申しますと、天地日月の心になる事の完璧を目指して、信心を進めておるという事なんです。流行る事もなければ終る事もないという心の状態。調子に乗り過ぎる事もなからなければ、というて調子を落とすような事もない。信心が段々出来てきたという事である。私は信心が素晴らしいというのはね。そういう信心を目指さなければ素晴らしいとは言えないと思う。それはもうちょっと素晴らしか、信心ちゃ。ない命を助けて頂いて、こういうお繰り合わせを頂いてという事が素晴らしいのじゃない。それはもう当然の事。
それは五と五を足せば十になる、という答えが出てくる。当り前の事。もしおかげが頂けんならば、計算間違いを私共がしておるんだという事。五と五を足せば十になるのだ。それが八になったり九になったりしておるとするなら、言わば計算の方を間違えておるのであるから、自分の心の上の事を、思うて見たらよいという事。『昨日、私はある人の深刻なお取次をさせて頂いた。そしたら神様からね。今あんたが思うておる心にちょっとましな信心をしろと。そしたら必ずおかげになると。
稔という字を棯と頂く。これにちょっと稔、こうすればおかげになると。稔という字は今の心と。棯、いわゆる今の心の状態では、おかげにはならんぞという事なんです。それにちょっとはましな改まりなっとんせんか。ひと修行でもしてみらんか、という訳なんです。だから今の心の状態ではおかげにならんと言うような御理解を頂いた。私共が天地日月の心になること肝要という、そういう精進をさせて頂くという、事なのですけれども。そんなら今日、私がね、天地金乃神様という方は、そういうものを、天地日月の心を、完璧に持っておられる方だという訳なんです。私共が拝んでおる天地金乃神様という方は。
そこでです。まあ極端に申しますならば、信心をしておって悪い事をしたとか、ご無礼をしておるとか、神様の悪口を言うとか。そういうような事で決して神様が罰を当てなさるような神様で決してないという事。私は今日は、ここのところが、私の発見ですから、よう聞いとって下さい。あのお気付けを頂いたとか、よく言うでしょう。絶対にないです。お気付けなんてんちゃ。もう今頃ご無礼しとりますけん、お気付け頂いた、罰かぶったと。いわゆる四神様の御教の中にもあるようにです。ある信者が参って来た。「もう今頃、無信心になっとりますから、罰かぶりました」と言うて願いに来たところが、四神様がおっしゃっておられますね。
「この神は罰を当てる暇があるなら、おかげをやるわい」とおっしゃった。罰を当てる暇だんなかて。だから金光教の信心には罰てん絶対ないのです。いわゆる天地日月の心、地の心なんです。そういう場合に地の心で、どういうご無礼者であろうが、どういう、お粗末な信心であろうが、それを神様は、受けて受けて受け抜いて下さって、しかも天の心です。もう与えて与えてやまないというお方なんです。ただしここで分からなければならん事は、与えて与えてやみなさらない、例えば神様なんだけれども。こちらに受けものがなからなければ受けられない、という事。』
昨日、私がある方のお取次をさせてもらったように、今の心では駄目だ。ちょっと、木辺を禾辺にしろという事なんです。それは本当にですね。昨日も総代会で、熊谷さんが発表しておられますが、娘さんが反対はなさらないけれども、信心はなさらない。銀行に勤めておられる。まあ心やすい人に、相当まとまった金を友人に貸しておられた。それが期限が来ても、利目もあげん。そして電話かければおらん。里の方に行きゃ、旅行しとる。もう兎に角逃げて回って、どうにも出来ん。
それをだから吉井の杉さんに打ち明けられた。そしたら、「お母さんもああして、毎日毎日参っておられる事じゃから、ああたも、どうでんこうでんお参りなさい」。「けれども下さくか、こういう金銭の事やらでお願いしたり。そげなこつするなら、おかしか」。「そげな事がありますもんかい。人間の難儀の全て、どういう事でも赤裸々にお取次を頂いて、お願いをする気になってごらんなさい。ああたが出来なさらないなら、私がお願いをしましょう」というて、杉さんからもお届けがあっておった。
それと前後して、お母さんにもその事が分かった。そこでお母さんも、兎に角、私がお願いしてやる分はよかばってん。あんたが一遍お願いに行かんのと言いながらも、毎日お届けがあっておった。それが昨日がもういよいよぎりぎりという日であった。そこで前の晩、お母さんと、いほこさんと、二人話し合ってです。いよいよ明日は合楽にお参りさせて頂こう。どげん言うて参ったらよかの、どげん言うてお取次頂いたらよかの。
だからそげん詳しゅう言う事はいらんと、お母さんがいつも、ちゃんと詳しくお届けはしとるけん。兎に角あんたがお参りをして、お取次を頂き、お願いをしてくればそれでいいと、言うてまあ言われた。心が本気で参ろうという気になったんです。久留米の銀行に勤めておられますから、昨日、井筒屋のデパートに行かれた。ところがその本人とパッタリ、その逃げ隠れして会えないその人と井筒屋で会った。
そしてその人が言われる事がです。今日は実はです。利をもって、お宅にお邪魔しょうと思いよりました、と言わっしゃった。もう私は、いつもの事ながら、神様のお働きというものは、そんなら相手の方に、そういう心を起させて、しかも、久留米のデパートの中で、会わして下さった。まあだお願いには来とらんとですよ。ここに。けれどもお参りしょうと、ちょっとその気になったという事です。もう本当に、所謂おかげのしるしを見せて下さる。それで帰りにお礼参拝をして帰られたと。
私はちょっとおりませんでしたけれども。お礼参拝して帰ったと言うておられます。ちょっと心を本気で向けたらね、おかげが頂けれるのが金光様の御信心。けれども参らんけん、拝まんけん、ちゅうてお気付けを下さったり、罰かぶらせたりする神様では絶対ない。それは天地日月の心の中の地の心、大地の心。その大地の心というのは、もうどんなに、悪い人であろうが善人であろうが、どういう神様の悪口を言う者であろうが、もうそれは受けて受けて受け抜きなさるのが神様のお心なんです。私共が拝んでおる天地金乃神様という方は。
世の中には、違いますね。神様の悪口どん言よると、罰かぶらせなさる神様やら仏様がござる。私共もお気付けということよく言葉に出しよりましたけれども。お気付けなんかも下さるはずは、絶対にないという事。大地の心で受けて受けて受け抜きなさる神様なんだ。しかもね、与えて与えてやみなさらない神様なのだと。天というものは、それこそ大地におしめりがあるように、ただ降るようにおかげというものは与えて下さってあるけれども。私共に受けものがないから、受けられないだけの事なんだ。
そこでそれを受ける事の為には、自分の心を真心を、一心を本心で神様に向けた時に、もうおかげというものは受けられるんだという事です。問題は本気で向けると言う事なんです。誤魔化せんです神様は。だから本気で例え向けて来てもです。今の心じゃいかん。一寸今の心に訂正せなければならん所は訂正し、詫びなければならん所は詫びなければならん。改まらならん所は一寸でもよいから改まらして頂く姿勢を見せただけで、神様はおかげを下さると言う事。神様は天の心、地の心、それも同時に日月の心。もうそれこそ正確無比、実意丁寧。もうこれより以上、もうこれより以上の実意丁寧と言う事はあるまいと思われる程の正確さ、正確無比を持ってです。私共に望んで下さる。
そこで私共もそういう心にならせて頂こうと言う心と、その心とが一つになる時にです。ね、おかげが受けられる。いや御徳が受けられる。今日はここんの所を御理解第七節の新解釈ですよね。天地日月の心になると言う事を、あらゆる角度から聞いて来たですね。又はね、天地金乃神は昔からある神ぞ、と言うような意味合いの事です、ね、よく聞いて来た。天地は流行る事もなからなければ、流行る事がないから終りもないと言う事を頂いて来たですけれども。その事は昨日、私が申しました。一喜一憂と言うものが神様にはない。
神様は決してヒステリーを起しなさらん。もうもやもやしたけん、あれを罰かぶらせようなんて事は決してないと言う事、ね。但しね、只その人が持って生まれた運命そのものはです。こりゃそりゃ動かす事は出来ません。信心によって動かす事は出来ます。例えば今日は災難がかかって来ると言う。例えば運命の元にあるでしょう。ね、それは仕方がない、受けなければ仕方がない、運命。けれども信心によって、それを払う事は出来ます。こちらが信心になれば、だから運命を変えて行くと言うのも信心です。
それは今日死ななければならないと言うような事であっても、ね。この人の心掛けが変ってくる。神様へおすがりをする、願ってくると言う事からです。また長い寿命を頂いて長生きのおかげを頂くと言う。それは信心によらなければ出来る事ではありません。昨日四時の御祈念をさせて頂く、立ち上がろうとする時ジャンジャン電話がかかって来た。久富先生が電話にかかっちゃる。それでお届けがあるなら、それを待ってお届けさせて頂こうと、それを待つとったら電話が終って、誰じゃったのと言うたら、日田の高芝さんからでございました。
何と言うてきたかと言うと、昨日は総代会です。ですから電話がかかって来て、今日の総代会は重大な話し合いがあるじゃろうかという事であった。「どうしてや」「いいや今日はちょっと何かモーターの故障が来て、ちょっと自分がおらなければ」と。あの人がおったからと言うて、モーターが動く訳ではないし、別に修繕しきる訳じゃなかろうけれどもです。まあ言うなら口実です。そこでその重大な事とか、何とか言うてから、月に一回の総代会。しかし十幾日後には記念祭といったような、また御本部参拝といったような教会の大きな行事があるのですから。
その重大な総代会に、そげな話し合いが出らないはずが絶対にない。大事な話があるじゃろうか、なんてんあるくさい大祭前じゃけん、と言うたというのである。私もそれ聞かせて頂いて、まあどうした人じゃろうか、とこう私は思うた。自分が来うごとなかもんじゃけん、すらごつ言うてからと言いながら思いながら、『私は御神前に出たんです。そしたら、その思っとる事は、もう神様に通じとる。そしたら御心眼に頂くのがね。ニンニクの入っとるソーセージ、サラミ・ソーセージと言うんですか。あれは洋酒のおつまみにはとってもいいんですよねえ。ちょっと臭い、ニンニクが入っとるから、‥‥を頂くのですよ。
私はそれを頂いてです。今日の御理解じゃないけれども。そんなら、何という神様というお方は、と思いました。高芝さんのね、それが素晴らしいところだとおっしゃるのですから、神様は、‥‥。私は総代のくせに、そういうこと言うてからと思いよるとですよ。だから大坪総一郎が思う事なんかという事は、本当にあれが、私が高芝さんの顔を見とったら、ああた馬鹿じゃなかの、総代のくせに、そげなこつ言うちからと、私なら言うとるに違いないです。電話で。けれども神様はです。例えばちょっと、成程信心くさい所があるけれども、です。それが彼の一番よか所だと神様はおっしゃるのですから。
そらもう、あげなこつしよるなら今に罰かぶる、お気付け頂くとか。信心しよって、そげなこつ言うちから、総代のくせに等というような事は、人間の考えであって、神様はむしろそれを、目を細めて何かこう、喜んでござるという感じです。そういう事が平気で言えれる高芝さんの心根というものをです。かえってかわいらしい、というような風に見ておられるという感じです。人が持たない味わいというようなものを持っておるんだという事です。ですから神様は、それをそんなら、例えば罰かぶるとか、お気付けを頂くという頂き方をすると、そういう思いとか、念というものが、そういう事になる。
それは又、別に説明しなければなりませんけれども、ですね。そういう事が起てくる事実も、だからあるという事です。』自分な今頃、無信心になっとるけん。お気付け頂くかもしれん。罰かぶるかもしれん、と思いよるから、その思いというものが、一つの難儀というものを形成する場合があるのです。だから皆さんが例えば、どんなにお粗末な事をしてもご無礼な事があっても、です。それで罰を当てなさるような事はないけれども。そんならおかげは受けられないという事です。特別の‥‥。
だから皆さんひとつその事は安心して、悪かこつするなら、していいのです。私共が拝んでおる神様とはそういう神様なんです。それが天地日月の心、地の心。地の心をもって、どういう汚いものでも、受けて受けて受け抜いて下さるのが神様のお心なんです。しかも与えて与えて与えやみなさらん、限りなく、‥‥それを受け止めていくという。そこでです。今、申しましたように、私が念じておる事、皆さんが一生懸命念じておる事がです。心の中に思うておる事がです。生活の中に、いわゆる生活意識で、生きていく為に、働いてもおる訳です。
食べんならんけん、働いてもおりますけど。その根本になるところは何処か。それを簡単に表現するなら、ただ信心を楽しんでおる。信心が楽しめるところ迄、行かなければいけない事が分かります。そこで私共はその手本を、教祖生神金光大神に置かなければなりません。その教祖金光大神の生きられ方、御教によって、より深く、より広く、分からせて頂こう。それがもう楽しゅうてたまらん。その追求していく事がです。私がこの世に生を受けた意義はここにあったという、ものをハッキリそこんところをつかませてもらう。そこに、意義を感じさせてもらい、生き甲斐も又、そこにあったと、思えれる程しの信心を頂かなければいけない。
儲け出す事が生き甲斐じゃない。この仕事を覚える事だけが生き甲斐じゃない。そのもう一つ向こうにです。神様の心を心として、言うなら天地日月の心になる事を教祖の御教によって、天地日月の心になる事の精進をさせてもらう。そこに生き甲斐が感じられるという程しの信心にならして頂いたらです。段々おかげで、天地は流行る事なし、流行る事なければ終りもない、という事をです。一喜一憂をせんですむ。流行もなからなければ流行遅れもない、という事。
私の心の中にはそれは、人生の一番悲しい事に出合っても、これは人生の一番目出度い、お祝いと言われるような事に出合っても。それは目出度い目出度いと調子に乗るような事もない。悲しい事に直面しても、です。出てくる答は、有難いという答が、頂けてくるという事に段々なるという事を、昨日は私の言うならば、この程度の信心を皆さんに聞いて頂いた訳です。私もそこんところは完璧という事ではないけれども。一喜一憂せんですむ、ところの信心が段々身に付いて来た。しかもこれを生涯かけて、これの完璧を祈らせて頂きながら、信心の稽古を楽しませて頂くという事にです。私は生き甲斐を感じておるのです。
ですからそのお互いの生き甲斐というものをです。そこに私は、天地日月の心の追求ですね。いわゆる、教祖の生きられ方の追求なんです。そこんところの信心を身に付けていかなければならない。同時に、今日ここんところは思い込んどってもらいたいと思う事は、決してこの神様は、どんなに無信心になったからと言うて、止めたからと言うて、お気付けを下さるような神様ではない。罰を当てなさるような神様ではない。これは本当に思い込んどかんとね。皆さんがもし無信心になった時に、ひょっとするとこれは、罰かぶるかもしれんなんてん思いよると本当に、罰かぶるような事が起ってくるですよ。
ですからこの神様は、そういう神様ではないという事を、ひとつ今日は知って頂きたい。そして、それを確認出来るところまで信心を進めて頂きたいと思う。どうぞ。